枇杷島地域の名鉄線路わきに住む方とお話し
さすがに頻繁に通過する列車の音でたびたび会話が途切れました。「これはちょっと大変ですね」と言ったところ、答は意外でした。
「音はもう慣れましたから…。それよりもこの土手の草木を何とかしてほしいんですよね」。
日本共産党 西区市政対策委員長 加藤ゆうき(勇来)のブログです。/小学5年から名古屋市西区在住。城西小一浄心中一名古屋西高。幼少時は児童養護施設で過ごし、30代半ばで学校支援員を務めるまでは非正規雇用上等の世捨人の半生。しかし、私はこれから社会に出る子供たちを世捨人にしたくありません。 これまで支えてきてくれたすべての人々と社会に恩返しをと考え続けていた道すがら、折よく日本共産党がチャンスをくれました。応援していただけたら幸いです。
さすがに頻繁に通過する列車の音でたびたび会話が途切れました。「これはちょっと大変ですね」と言ったところ、答は意外でした。
「音はもう慣れましたから…。それよりもこの土手の草木を何とかしてほしいんですよね」。
これまであまり祝われる機会はなかったのですが、何と今年は事務所の人たちがケーキを買い、密かに、かつささやかなお祝いをしてくれました。大4本、小4本のろうそくを立てたケーキは本格的なバースデイ仕様、ちゃんと「Happy Birthday」の名前入りです。それにしても今は、小麦粉も、卵も、油も、イチゴも、何もかも値上がりしケーキの値段は鰻上りなので、これでも相当なものでしょうね。感謝!
ところで投稿ついでに、動画をご覧になった方はご存じの話ですが、クリスマスの思い出を一つ。私が児童養護施設にいたとき、親権が持てず私たち兄妹の居所も分からなかった母親が、偶然見たテレビのニュースでそれを知ることになったのです。それは市長さんが施設の子らにお菓子の入ったブーツをプレゼントしてくれたとき、入所児の代表としてそれを受け取る姿が映ったからです。小4と4歳の兄妹がそれからどうやって母との同居を果たしたか、ご興味のある方は、こちらをどうぞ。
そこからは思いがけないことの連続でした。自宅の初訪問の時も「赤旗」購読をすすめられるだけだと思っていたら、入党のお願いでした。入党後すぐにコロナが蔓延し、活動もほぼしていないのに、今度は市議選への出馬要請でした。私の人生に何が起きているのか、自分でも分からないほどの進展でした。
その時、小学校の支援員の仕事にやりがいを感じていた私は市議選出馬要請に正直悩みました。しかし、日々追い詰められる子どもたちを見ていると「何とかしたい」という気持ちもあり、立候補を決意しました。子どもの頃は児童養護施設で育ち、学歴も地盤もない私に何ができるだろうか、まさに手探り状態です。
雲をつかむような気持ちで候補者活動を始めてみると、街にはこんなに沢山の困りごとがあったのかと、驚く毎日です。声無き声があちこちにあり、うつむいて前を向けない人たちがいる。これが自己責任なのか?かねてからの私の疑問が湧き上がります。大人から子どもまで誰もこぼれない社会。理想論かもしれませんが、そこに向かって知恵を出して努力するのは自由です。市井の市民でしかない私が声無き声を聞き、行政に届ける。これが私の目指す議員の仕事です。
学歴も地盤もありません。しかし、しがらみもありません。
養護施設で育ち、人生を前向きに生きてきたとは言えませんが、周囲の人たちの熱心な助力で今があります。不運はあったかもしれませんが、不幸だったとは思いません。
本当に支えられ、救われてきた人生。この恩を次世代の子どもたちに返し、私がした回り道をしなくてすむ世の中にしたい。
誰もが下を向くことなく夢を追える社会にしたい。歳を重ねるごとにこの気持ちが強くなっていきました。
そんなときに出会った日本共産党、そして市議選への出馬要請。驚きとともに、これこそ 自分にできる「恩返し」ではないかと思い、腹を決めました。
子ども対高齢者、正社員対派遣社員、こんな分断社会ではなく、支えあえる社会へ変える!
すべて一から勉強、どうぞよろしくお願いします。
追伸
私の紹介リーフレットも画像で添付します。
加藤ゆうき(勇来)と言います。
来年(2023年)4月の選挙で西区から日本共産党の候補者として名古屋市議会議員に挑戦します。
本当はスピードの速い対応できる自信がなくて、SNSもあまり積極的じゃありませんでした。でも、ただでさえ、普通に届けたいことが周囲へ届いていかないもどかしさを感じて、有権者はもちろんできるだけ多くの人たち、なかでも一人でも多くの若い人たちと通じ合える可能性が欲しいと思って、このブログやYou Tubeのチャンネルも開きました。
どうぞよろしくお付き合いをお願いします。