2024年8月10日土曜日

満蒙開拓記念館を訪れて

 



 

7月14日、西青年支部主催で長野県阿智村へスタディツアーに行きました。

 長野県南部に位置する阿智村は太平洋戦争中に多くの村民が「開拓移民」として満州国(現在の中国東北地方)に渡りました。軍隊の食糧を現地生産するため、貧しい農家の次男三男に「大地主になれる」「満州は王道楽土、ユートピアだ」と夢を見させ、国が補助金まで出す国策移民でした。

 しかし実際にはソ連国境に近い荒れ地の開拓に従事させられたり、満州の農地を安く買い叩いたため、現地の中国人の恨みを買うこともあったようです。これは、日本人居住区を壁で囲って守り、南満洲鉄道株式会社(満鉄)がもつ炭鉱などの拠点には自警団も配置されていたことからも窺えます。半官半民の満鉄の中には兵隊のような組織があり、移民してきた農民にも武装農民が組織され、末期には「満蒙開拓青少年義勇軍」という訓練された青少年が送り込まれました。満州国の建国理念である【五族協和】【王道楽土】とはほど遠い実態であり、その裏側には関東軍の支配があったことは明白です。

   五族協和・・・満日蒙漢朝の五民族が協力し平和な国を作るという趣旨

   王道楽土・・・アジアの理想国家である楽土を、武による統治ではなく、徳による統治(王道)により造るという理念

 たった13年間しか存在せず、国際的にも国として認められなかった満州国。「日本は満州の支配権を手放しなさい」という勧告が日本の国際連盟脱退の原因にもなりました。中国の撫順市には、日本の首席全権として国連脱退を宣言した松岡洋右の名を冠する町がありました。松岡洋右は満鉄総裁に就任し、その満鉄の利権である巨大炭鉱が撫順市にあったのです。

日本が作った傀儡国家の末路は悲惨なものでした。敗戦濃厚となると満州の関東軍はいち早く撤退を始めます。橋や線路を破壊していったので、取り残された開拓民や一部兵士は徒歩での逃避行を強いられました。軍が撤退したことで、開拓民は現地住民や突如参戦してきたソ連兵に追われることになります。普通に街道を行けば見つかるため、夜の闇に紛れて山道を逃げました。水も食糧も満足でないなか、持てるだけの荷物を抱え、幼い子供を引き連れて数百キロの逃避行です。

 途中で気力が尽き、帰国を諦めた人達は集団自決を選びました。隊列についていけない歩みの遅い我が子を、その場に置き去りにするしかなかった親もいます。親日的な中国人に子供を託した人もいます。のちの中国残留孤児です。

 ソ連兵に捕まって捕虜となった男性はシベリアに送られ強制労働が待っていました。そこで命を落とした人も少なくありません。これが国の勧めた「往け!ユートピアへ」の結末です。

「私達は騙された。騙そうとする者がいても、騙される者がいなければこの悲劇は起きなかった。だから生き延びて二度と騙されないように勉強しよう」

 昭和20年8月、終戦により難民となった開拓民ですが、一向に帰国の手立ては取られませんでした。ひと冬越した10ヶ月後、ようやく満州最南端の港から引き揚げが始まりますが、すでに20万人が命を落としていました。満州で国に棄てられた100万人が全て帰国できたのは、それから2年後のことです。

 

昭和20年8月14日 (←なんと終戦前日!)

■外務大臣訓令 

 (満州)居留民は出来得る限り(現地に)定着の方針を執る

        ■大本営参謀報告

       満朝に土着する者は日本国籍を離るるも支障なきものとす





今を生きる私たちは

  歴史に学び 平和の尊さを後世に伝える責任があります

  過ちを 二度と繰り返さないために ー

●学べる講座

 https://www.manmoukinenkan.com/20210719/

●ビデオ 記念館開設へのあゆみ

 https://www.manmoukinenkan.com/

●映画「望郷の鐘」(ダイジェスト)

 



        

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